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在留邦人が日本で失敗した最大の理由 [在留邦人批判]

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クライストチャーチの出身校が同窓生向けに学校情報の提供を始めた。メールアドレスを登録すると、広報誌(Newsletter)の最新版を配信するというので登録をしてみた。
これまでも広報誌はオンライン上で読むことはできたが、いつ更新されるのか不明で、不定期に確認する煩わしい作業が省けると思ったのだ。
メールアドレスを登録してみたが、そこはニュージーランド、オンライン上の広報誌は最新版に更新されているが、更新情報は届かない。『この緩さがニュージーランド!』と、在留邦人は絶賛するのだろうが、私は絶賛できない。広報誌が最新版に更新されていても、更新情報は届かない。これは「緩い」ではなく「無能」である。
言葉には、それぞれ意味がある。似たような言葉でも、同じ意味にはならない。「緩い」と「無能」は、異なる言葉であり、異なる意味を持つ。

約30年前、私はクライストチャーチのキリスト教学校で惨めな高校生をやっていたわけですが、そのころから在留邦人・日本人留学生とは、日本語が通じなかった。日本語を学ぶ現地生と日本語は通じたが、在留邦人・日本人留学生の話す日本語は通じなかった。この感覚は、2022年になっても変わっていない。

ひさしぶりでもないが、出身校のホームページを見てみた。教員名簿を見ると、私の1学年下の後輩1名と、2学年下の1名が、現職の正教員になっている。1人は数学科の教員、もう1人は理科の教員。どちらも成績優秀な(元)生徒で、いつも表彰を受けていたのでよく覚えている。
数学科の教員になった子は、確か、数学オリンピックのニュージーランド代表だか、代表候補になった(元)生徒だと思う。数学能力って、十代が最大で、二十代に入り数理学的な能力を伸ばせる人は、ほぼ、いない。高校時代の手柄を勲章に母校の数学科教員になったことは正しい選択だと思う。
理科教員の後輩の子は、私の同級生と結婚している。ニュージーランドらしい狭い範囲の狭い人間関係である。地元の高校を卒業し、地元の大学に進学し(クライストチャーチには大学が2つある)、出身校に勤務し、出身校の人と結婚し、出身校の近くに住み、学校の人と同じ教会に通うので親同士も知り合いだから『あの子の親は真面目な人だから、あの子となら付き合ってもいい』と、早くから親公認の交際に発展する典型的なニュージーランドの男女関係である。ニュージーランドは社会も狭いが、人間関係は、より狭く、同じ学校に通う人との結婚が、ものすごく多い(同時に離婚も多い)。そのくらいしか男女の出会いがない。そこから漏れた人が、日本人を含む外国人と結婚している。だから、真面目な現地の人は、外国人と結婚しない。日本人を含む外国人と結婚する人が不真面目とは言えないが、少なくとも「真面目な人」ではない。その人は「良い人」かもしれないが「真面目な人」ではない。「悪い人」ではないかもしれないが「真面目な人」ではない。それゆえに、配偶者や交際相手が誰なのか、相手の存在がわかってしまうと、その人の隠された内面がわかってしまう。どこでも田舎って、そんなもんだと思いますけどね。

出身校の学費を見ると、現地生の学費は 25,000ドル(250万円)、外国人生徒の学費は 40,000ドル(400万円)と記載されている。約30年前、私がこの学校に通っていた当時の学費は 13,000ドル(130万円)だったので、私立の名門校としては安い学費を維持している。

ニュージーランド人の1人あたりの平均所得は 55,000ドル(550万円)、1世帯あたりの平均家計所得は 100,000ドル(1000万円)なので、所得の「平均」に位置する家庭では、この学校に子女を通わせることはできない。
ニュージーランドでは、70,000ドル(700万円)を超えると高額所得者に位置づけられ、所得税率がグッと上がるのだが、私がいた約30年前は、年間所得が 54,000ドル(540万円)を超えると高額所得者と規定されていた。約30年前の高額所得者が、現在は平均所得者へ格下げされているので、それを考えると、私の出身校の学費は「安い」と判断できるのだ。

私はこの学校に在学時、親から2年分の学費を預かり、資産運用をして、3年分の学費に増やした。午前8時から午後3時30分まで授業があり、午後4時に家に着き、銀行は午後4時30分まで営業しているが、そこはニュージーランド、午後4時を過ぎると銀行員は帰り支度を始めるので、業務を受け付けてくれない。『もう帰るから、明日来い』と、普通に言われる。まだ営業時間終了まで30分もあるのに。社会全体が午後5時で機能停止する「9時・5時(17時)社会」なので、取引に使える時間は、実質、30分くらいしかなかったが、高い利回りを出し、2年分の学費を3年分に増やすことに成功した。学費負担が軽くなったことを親に報告をすると、うちの親はとても驚いていたが、驚く親の顔を見て、私が驚いた。

会計学担当教員は「元銀行員」という不思議な経歴を持つ人物であったが、私の資産運用に対し『もっと上手く利回りを出せ』と、ずいぶん、手厳しい指導を受けた。日本の学校で教員と生徒が金儲けの話をしていれば、他の教員から白い目で見られることは当然のことであるが、これは、ニュージーランドの学校でもまったく同じである。
「元銀行員」という不思議な経歴を持つ教員だったので、銀行内でどれだけの不正が日常的に起きているのか、実例を用いて説明してくれたことはよく覚えている。一度、授業中に、元勤務先の銀行に連れて行ってもらい、元同僚を講師に、話を聞かせてもらったことがある。ニュージーランドの学校でよくある「いきなり社会科見学」。先生が自分の車(または学校の車)を運転し、車で通学している他の生徒の車に分乗しお出掛けする「いきなり社会科見学」は、どの学校でも見られる日常的な授業風景である。日本の学校では、高校生が車を運転し通学していないので、できません。
元同僚の銀行講師から何の話を聞いたのかまったく覚えていないが、スクエアにある銀行本部の上層階にある会議室に通され、エアコンが効いていたので『ニュージーランドにもエアコンってあるのか』と、驚いたことだけは覚えている。また、元同僚という銀行員が背広を着ていたので『ニュージーランドの人で背広を着る人がいるのか』と、驚いた(注:一般的なニュージーランドのビジネスマンは背広を着ない)。

私はニュージーランドで惨めな高校生をやっていたが、これは私の歴史なので、他者の干渉は受けない。私の歴史は、あなたの歴史ではない。あなたの歴史は、私の歴史ではない。私がどれだけ、あなたが大好きなニュージーランドを批判しても、それが私の歴史なのだ。

オーストラリアに住む在留邦人が "twitter" に「ニュージーランド在住の日本人で「ニュージーランド大嫌いブログ」を知らない人はいない」と、酷評していた。名誉で迷惑な書き込みだ。とにかく私を「キチガイ」と言いたいらしい。その書き込みの中で、パースの教会に出入りしていた日本人もキチガイだった、海外在住の日本人はキチガイばかりと、私を批判しているのか肯定しているのかわからない書き込みをしていた。自分の書き込みに絶対の自信があるのなら、"twitter" の投稿を非公開にせず、堂々と、私のように公開すればいいのにね。私を批判しながら、自分の書き込みは公開しない。公開できない理由があるのか、おまえが一番キチガイだと、性格の悪い私は疑ってしまうのだ。

以前もこのブログに書いたニュージーランドで不動産投資をしているおじさんが『学校では不労所得(の方法)を教えてくれない』と投稿している。当たり前のことだ。学校はお勉強をする場である。働かずしてカネを稼ぐ方法を教えるわけない。在留邦人が絶賛するニュージーランドの学校でも「不労所得」のやり方など教えるわけない。バカじゃないのかと思った。そんな常識的なことも理解できないのかと悲しくなる。本当にバカなんだなって。在留邦人はバカで、常識のカケラすらないんですけどね。
私が惨めな高校生を終えて約30年が経っても、やっぱり在留邦人って「人間のクズ」「核廃棄物以下の存在」「最下層の最下層」だと思います。皆さんも、そう、思いませんか?

ニュージーランド不動産おじさんも『人の意見は聞かない』と、意固地になっている。
ニュージーランド不動産おじさんは日本語で書き込みをしているので、見ている人が「日本人」であることを認識した上での投稿である。
その一方で、パケハの言うこと、それに、大好きな中国人妻の言うことは素直に聞き入れる。それで、大やけどはしていないだけである。
在留邦人は、日本人向けの意見と、外国人向けの意見が、まったく異なる。このことに、在留邦人は気がついていない。「裏アカウント」を持ち、海外生活の「毒」を裏アカに吐き続けるのは、それが理由である。キラキラした海外生活を発信し続けないと、自分が食っていけない。『やっぱり何でも日本の方が良い』となってしまうと、日本人相手の商売が成り立たず、お金が入ってこない。現に、日本人相手の商売が成り立たない在留邦人は帰国ラッシュを迎えている。「日刊ニュージーランドライフ」主宰の長田雅史もその1人である。帰国決定後からのニュージーランド批判が凄まじい。『あれあれあれ? あのキラキラしたニュージーランドライフは、どこへいったの?』と、恐怖を感じるほど、ニュージーランド批判しか見られない。これが、在留邦人の本当の姿である。

約30年前、私の周りには現地生活に困っている日本人や日本人留学生がたくさんいた。現地の民は『頭のおかしな日本人が困っている。おまえが助けてやれ』と、私に言いにくる。私は『日本人とは日本語が通じないから助けたくない』『助けてあげてもお礼も言わない見知らぬ人を助けられない』と言っても、現地の民は納得しない。『おまえがやれ』の一点張り。しぶしぶ、助けてあげると問題は解決するが、日本人はお礼も言わず、どこかへ消えてしまう。それを見た現地の民は『ほら、上手くいったじゃないか』と言うが、それは私がやったから上手くいっただけで、問題を抱えた日本人は何もやっていない。

その一方で、現地のパケハ(白人)が手助けしてくれると、飛び上がって喜ぶ。『日本人でこんな親切な人はいない!』と、飛び跳ねて喜ぶ。そして「ニュージーランド LOVE!」「パケハ LOVE!」になる。現地の女性には見向きもされない最下層に位置するパケハ(男性)からすれば、こんなに嬉しいことはない。然したる努力もしていないのに、簡単な手助けをすると日本人女性は大喜びし、飛びついてくる。すぐに男女の関係、性的関係になるので、パケハ(男性)と日本人女性のカップルは非常に多い。同時に、破局する確率も非常に高い。

私がニュージーランド不動産おじさんに『おじさん、そこにある箱は宝箱だよ。開けたら財宝が入っている』とおしえても、日本人である私からの助言を受けた意固地のニュージーランド不動産おじさんは『それはゴミ箱だ!』『 ゴミしか入っていない! おまえは嘘つきのキチガイだ!』と、私を総批判して、敵対視して、総攻撃を仕掛けてくる。これが実際に、私が約30年前に在留邦人と日本人留学生にされた仕打ちなのだ。このカルチャーは現在に至るまで現地に残っている。
同じことをパケハが言えば『日本人でこんな親切な人はいない!』と、飛び跳ねて喜ぶ。「LOVE LOVE ニュージーランド LOVE」になっちゃう。これが、私が約30年前にニュージーランドという世界の僻地で惨めな高校生をやっていた頃の日常である。

海外生活を体験する在留邦人は、謙虚さを取り戻す。日本では意固地で人の話は聞かない、動かない、何でも反対する日本共産党の支持者のような人たちが、海外生活を経験することで素直になり、人の意見を聞き入れ、実行に移し、協調性を持ち行動するようになる。これって、典型的な日本の学校で学ぶ「義務教育」なんですけれどね。

学校の先生も、実家の母親も、生徒や子供が社会に出て苦労しないよう、幼少期から青年期に掛けて厳しく指導する。これは、在留邦人が大好きなニュージーランドでもまったく同じである。おカネの使い方から時間の使い方、言葉遣いに身だしなみ、学校生活から私生活まで、厳しく指導する。生徒や子供が社会に出て苦労しないよう、自分が悪役になっても構わないので厳しく指導する。それが教員としての、母親としての、務めである。

大人は大人に厳しい目で見る。一般常識はあるのか、基礎教養はあるのか、正しい言葉遣い・振る舞いはできるのか、人に対する礼儀はあるのか。一挙手一投足を厳しく確認する。なぜか。それが、大人の世界だからだ。これらができていなければ批判されるのは本人ではなく、その指導者であり、親である。それゆえに、学校の先生も、実家の母親も、厳しく指導するのだ。それらを全て批判し、否定し、聞く耳を持たなかった人たちが、在留邦人である。

在留邦人が日本で上手くやれるわけない。一般常識はなく、基礎教養もない。挨拶もできず、人に対する礼儀もない。『おまえは学校で、家庭で、何を学んできたのか』と、怒られる。そりゃーそーだ。在留邦人は逃げるだけの人生で、学校でも家庭でも逃げ続け、何も学んでいない。常識もなければ、教養もない。そんな人間が厳しい日本社会で上手くやれるわけない。結果、在留邦人が流れ流され辿り着いたのが、世界の僻地にあるほとんど人が住んでいない孤島である。

二十代半ばで社会に出るまでは学校という閉ざされた空間で、準備期間を過ごす。すべては、社会に出るまでの準備期間である。在留邦人は、この準備期間を批判し、否定し、反発してきた人たちである。
社会に出ても、10年間は見習い期間である。在留邦人は、この期間も批判し、否定し、反発してきた人たちである。自分では正しいことをしているつもりで、大失敗を犯している。激しい思い込みに基づく大失敗は、取返しがつかない。適切な年齢で修学も、就労も経験していない、一般常識も基礎教養もない在留邦人が、日本社会で上手くやっていけるわけない。それ以上に、ニュージーランドでは上手くやれないので、ニュージーランドにいても、日本人相手の仕事以外は何もできない。実際に在留邦人を見てよ。日本人相手の仕事か、単純労働以外は何もできない。大口は叩くが、実際には何もできていない。
パケハの言うことだけはよく聞く在留邦人に対し、パケハは良い印象を持つ。ラジコンカーのように、右に行けと指示すれば右に行き、左に行けと指示すれば左に行く。こんな操作が楽な人間は、世界の僻地にあるド田舎のニュージーランドにいねーわ、となる。まったく同じことを私が言っても、在留邦人も日本人留学生も意固地なので何も聞かない、何もやらない。代わりに私がやることで、自分がやった気になるので、礼もなく、どこかへ消えてしまう。私が全て代わりにやっているので、良い結果だけは付いて来るので、私とパケハも、在留邦人・日本人留学生をめぐり意見が一致しない。この感覚は、2022年になっても変わっていない。

日本人でも外国人でもない。それが、在留邦人という存在である。「在留邦人」とは誰なのか。「在留邦人」は「在留邦人」である。「在留邦人」は、日本人ではない。しかし、外国人でもない。「在留邦人」は「在留邦人」としか答えられないのだ。外国人と「在留邦人」について話すことは不可能である。外国人の中に「在留邦人」という存在がないからだ。

「学費」という概念が存在しないニュージーランドの教育界で、年間250万円も掛かる私立校に通わせる家庭があるのは、学校という閉ざされた空間で、厳しい指導を受けさせることにある。保護者から年間250万円の学費負担をいただき、大切な子女を預かる私立校には「教養」という概念が存在する。幼少期から青年期に掛けて、厳しい指導を受けないと、大人になっても、大人になれない。在留邦人を見てよ。顔も体も大人でも、中身がクズ、人間のクズ、最下層のクズしかいないじゃない。

『ニュージーランド人は、他人について、とやかく言わない』と公言する在留邦人の発言は事実である。

ニュージーランドで「学費」という概念が存在しない公立校で、生徒1人・1人に、厳しい指導なんかやらない。「ペイしない(給与に見合った見返りが期待できない)」からね。私が公立校の教員なら、指導する生徒には何も言わない。厳しく指導をしても何も変わらず、生徒は文句ばかり言い出す。自分の給与が増えるわけでもない。その生徒が社会に出て成功しても失敗しても、それは私の責任ではないので、指導にも身が入らない。やってもやらなくても同じなら、負担の少ない方を選ぶことは当然のことである。それなら、何もしないが「善」と判断する。これが、ニュージーランドの公立校の指導方針である。

他方、私立校はどうだろう。シャツの第一ボタンが外れていたらボタンを掛けなおすまで厳しく注意される。髪の毛が長ければ切るように(女子の場合は結ぶように)厳しく指導される。靴下が下がったままであれば、靴下を上げるまでその場を離れることはできない。白いシャツの下に赤いインナーシャツを着ていればその場で脱がされる。教員を呼ぶ際に "Excuse me(us)" が抜けていれば、教員は返事をしてくれない。来校者に対し、一礼し、敬意を払わなければ、あとで呼び出しをくらう。これら全て、社会の一般常識として、ニュージーランド社会で最重視される、最低限のマナーである。それゆえに、私がクライストチャーチの出身校の名前を出せば "Good School" と称賛される所以だ。学校名がわかる人は、その学校に子女を通わせる親の教養レベルまでわかってしまうので、見たことも会ったこともない、うちの親も褒められ『Youの親は真面目で正しい人だね』と言われる。
「学費」という概念が存在しないニュージーランドで、年間250万円の学費負担が生じる私立校へ通わせる家庭があるのには、明確な理由が存在するのだ。

ニュージーランドの人は『何も言わないが良いことではない』ことを理解している。理解していないのは、日本で失敗した在留邦人・日本人留学生だけだ。

いつも思うことは、在留邦人・日本人留学生は、なぜ、ニュージーランドで出来ることを、日本では出来なかったのか。私には理解不能なのだが、わかる人がいれば私にではなく、在留邦人・日本人留学生におしえてあげてください。たぶん、あなたの助言を素直に聞き入れる在留邦人は、この世に1人もいないと思いますけれど。