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「宝くじ」より当たらない ニュージーランドの「安楽死」の現実 [ニュージーランド本当の姿]

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皆さんは「宝くじ」を買ったことがあるだろうか。

私は、宝くじを買ったことがない。なぜなら、当たらないことがわかるので、買う必要がないからである。

「宝くじ」は、当選本数が事前に決まっているので「必ず当たる」仕組みが存在する。
宝くじの中でも特に知名度の高い「年末ジャンボ宝くじ」は、一口(一枚)300円。投資額の「300円」を回収するためには、最低でも10口(10枚)の購入が必要になる不利な取引である。
年末ジャンボ宝くじの「4等・1万円」を当てる確率は、1/1000。「1000枚を買えば、1万円が当たる」と考える人は、算数のお勉強ができない人です。あなたの算数の通信簿は悪かったはず。
「確率」の世界では、宝くじは1000枚買っても1万円は当たらない。他方、1枚で1万円が当たる。これが「確率」という不条理な世界である。

ニュージーランドに「宝くじ」はないが、公営ギャンブルの主流である「ロト」には、「必ず当たる」仕組みは存在しないため「繰り越し」という仕組みが導入されている。つまり、「誰にも当たらない」ことが起きてしまう。事前に「誰にも当たらない」ことがわかっているのに、「ロト」を買う人がいる。「人間は夢の中に生きている」と、性格の悪い私は思います。私も、夢の中に生きてみたい。

私が世界の僻地にあるド田舎のニュージーランドで惨めな高校をやっていた約25年前、「ロト」を3回連続で購入し、3回連続で当てた。「当たらないことがわかっている」ロトを3連続で買って、3連続で当てた。投資額は15ドル(5ドル×3回)で、70ドル(20ドルくらい+20ドルくらい+30ドルくらい)くらい戻ってきた。どの人もそのくらい当てるものだと思っていたので、『1度も当たったことがない』という人が多く、驚いた。
購入場所は、クライストチャーチ・リカトンモール内のスーパーマーケット横にあるロト売り場。当時は "New World" という赤色が目印のスーパーマーケットが入店していたが、現在は "PAK'nSAVE" という黄色が目印のスーパーマーケットが入店している。2020年現在「南島で最も幸運な売り場」に認定されているロト売り場であり、私がいた約25年前から「幸運な売り場」として有名な売り場であった。この売り場は土曜日の午後になると長蛇の列ができる(抽選日が土曜の夜だから)。それまでニュージーランドで行列を見たことがなかったので『ニュージーランドにも人っているんだ』と、驚いた。

私がロトを買うと当たることがわかったので、それ以来、ロトは買っていない。『勝ち続ける人生は、つまらない』と、感じたからである。その判断は正しかったと、約25年経った現在も同じ判断である。「自らの頭で考え、行動し、判断する」「横並びはやらない」を、約25年が経っても忠実に実行している。

ロトの配当金は私が通っていた教会に全額寄附をした。それが私の務めであり、キリスト教徒としてのあるべき姿である。キリスト教徒は収入があれば最初に寄附をする。現金による寄付である。日本語で言えば「社中協力の精神」となる(注:「社中」とは『それに携わる全ての人たち』を意味する)。これは、どこかの私立大学の建学の精神と同じです。
昨年度、私の出身大学は、62億円の寄附金を集めた。当初予算の1.4倍の寄附金を集めた。ライバルの早稲田大学は37億円、最高学府(?)の東京大学が41億円と比べると「レベチ」です。
ちなみに、私の出身大学は「創立150周年事業」で、寄附金285億円を集めた。当初目標は「5年間で250億円」を集める予定が3年で達成してしまい、最終的に、285億円を集めた驚異の集金力。申込件数5万件、在校生も卒業生も、皆、喜んで現金寄附をした。私も喜んで現金寄附をした。『慶應生で良かった』『ニュージーランドと大違い』と、心の底から思った。

在留邦人の多くが『日本より貧しいニュージーランドの現金寄附は多いのに、なぜ、日本では現金寄附が進まないのか』と、激しい怒りを表すが、私からすると『寄附をしていないのはオマエだけ!』である。私のウンコのようなブログを隅々まで読むアナタ! 現金寄附をしていますか? 「ふるさと納税」じゃないYO!

ニュージーランドで「寄附」が多いのには理由がある。ニュージーランドには、目に見えない慣例に基づく「カラクリ」がたくさんあるのだ。

ニュージーランドでは「寄附」を意味する英語として "Donation" という言葉が用いられる。献血のことを "Blood Donation"(血液の寄附)と称する。しかし、この "Donation" という言葉は一般的に「公立校の学費支払い」を意味する言葉であることから、「あなたは "Donation" をしたのか?」と聞かれる時は「公立校の学費を支払ったのか?」と聞かれていることを意味する。この英語がわかっていそうで、意外とわからない「ニュージーランド英語」の特徴である。「ニュージーランド英語」は慣例に基づく言葉のため、辞書に載っている英語が、そのまま、使われているわけではないのだ。
ニュージーランドで「慈善」を意味する英語は "Charity" または "Fundraising" という英語が用いられるため注意が必要である。
国際調査で、ニュージーランド人の "Donation" は非常に高い比率であるが、それはその通りで、公立校の学費支払いをしているからである。公立校は学費が無償化されているため「学費」という言葉が存在しない。公立校は学費に相当する言葉がないため『あー、言葉がない!!!』となってしまい、仕方がなく "Donation" という言葉を代用しているにすぎない。公立校は「表向き」学費が無償化されているが、実際は、"Donation" という言葉を変えた「学費」が存在する。これは、慣例に基づく習わしである。この "Donation" を支払わないと学校に通えない。学費のない公立校で学費を徴収するって、古代人だって思いつかない発想です。

私は現地の私立校へ通ったため、学費支払いを意味する "Tuition Fee(s)"(授業料) という英語が用いられる。ニュージーランドで私立校へ通う生徒は、総生徒数の、わずか、4%。他方、公立校へ通う生徒は、85%。
公立校の "Donation"、私立校の "Tuition Fee(s)" を支払わなければ学校に通えないのは、どちらも同じ。『"Donation" だから任意なのでは?』は、通用しない。公立校で "Donation" を支払わなければ、その生徒は "Expelled"(退学)になる。ニュージーランドの英語だと "Kicked Out"(学校から蹴り出される)というのが一般的です。

在留邦人のほとんどが、この "Donation" の意味を理解できないため、『なぜ、貧しいニュージーランド人より裕福な日本人は "Donation" をしないのか』と、怒り心頭であるが、阪神タイガースの岡田彰布 監督が聞けば『そら、そうよ』と答えることでしょう。日本の公立校って学費を別途徴収しないもの。「学費」という言葉がないニュージーランドの公立校で「学費」を徴収していることがおかしいんです。無知って、イタイね。

さ・ら・に! 
ニュージーランドの公立校には「働く日」という学校行事があり、「働く日」は授業は休みとなり、その時間でどこかで働き、そこで得た給与を、全額、学校へ持ってこなくてはいけない。働いた生徒のポケットに入るカネは1ドル(100円)もない。「働く日」で徴収した給与は、学校の施設費や教員給与に充てる。日本では考えられない「働く日」があります。これはどの公立校にも、100%、導入されている。
「働く日」の労働は任意なのかといえば、強制なんですね。「強制労働」なので働かないと学校から処分を受ける。事前に勤務先と労働時間、時給の届け出が必要なので、教員はどの生徒がいくらの給与を得たのかすべて把握しており、逃げることはできない。しかも、働く場所は、自分でさがしてこなくてはいけない。怖いですね~。終戦から78年が経つのに、ニュージーランドにはいまだに「強制労働」が実在するのだ。
「働く日」の実情は、ほとんどの生徒は働かず、家からお金を持ってくるだけで、名前だけの「働く日」ですが。勤務場所は「自宅」でも可。親からカネをもらい学校に持って行けば良いだけ。生徒は家でポテトチップスを食べながらテレビを見ているか、アダルトサイト "Pornhub" を見ているのか、どちらか。"Pornhub" を見ているなんて『オマエは私か!』と、驚きます(注:ニュージーランドでは18歳未満の生徒によるアダルト動画の視聴が社会問題となっており、ニュージーランド内務省はアダルトサイトへの遮断を検討するほど大きな問題になっている)。ほとんどの教員は「働く日」に生徒が働くと思っていない。自分も生徒だった頃に「働く日」に働いていないからね。「働く日」に働く生徒は二割もいない。これも、ニュージーランドの目に見えない慣例であり、社会を動かす「カラクリ」である。

ニュージーランドでは、目に見ないところでお金が引かれてしまう。目に見える部分でもお金は引かれますが。
税率が高く、基礎控除や免除という概念が存在せず、貧しい人に負担が大きい。高負担から金持ちは北半球へ移住してしまうので、やっぱり貧しい人に負担が大きい。
ニュージーランドに住んでみると、思った以上におカネが出ていくことを骨の髄まで実感することだろう。

「宝くじ」も「ロト」も「幸運な売り場」以外は当たらない。これは、私の肌感覚でも、計量的にも断言できる。ロトの運営を担当する「ニュージーランド・ロト協会」が公式に発表していますから。「お金」はお金が好きな場所に集まるので、そこへ行かないと「お金」には出会えない。これをロジカルに、数理学的に説明できる数学者に出会いたいが「宝くじの当て方」をロジカルに説明できる数学者は、この世にいない。それはつまり、「宝くじ」が当たらないことを意味する。
私の同級生に大学入試の「数学」で「99%」という驚異的な正答率を出した子がいたが(後に博士号(Ph.D.)を取得し数学者になった)が、その子でも私の望む説明はできない。それができたら数学者なんて儲からない商売はやっていませんからね。ちなみにその子は、現在、行方不明です。

「ニュージーランドでは政治に民意が反映され、自分の死期も自由に選べる」と言えば聞こえは良い。しかし、『自分は死にたいので安楽死、お願いしやすっ!」と言ったところで、安楽死が認められる確率は「宝くじ」を当てるより難しいのが現実である。普通の人は、安楽死が認められないとすることが健全な判断である。

私はこのブログで、コロナの最中で「死ぬ準備」をしておこうと、提言をした。
異国の地で、慣例に基づく習わしの多いニュージーランドで、日本人が死んだ時には、例外なく、パニックになる。それを回避するため、事前に「死」を素直に受け入れ、その準備をしておくことで、遺族への迷惑は最小に留めようとする趣旨の提言である。私は本当に、これは大切なことに思うのだ。死ななくとも、認知症になる、脳に高度の障害が残ると、意思疎通が図れない。在留邦人の多くが、子女と日本語で会話ができない。自分の子と、どのようなコミュニケーションをとるべきか、生きている時に準備しておく必要性を提言したのである。
それと同時に、「それができる人は在留邦人になっていない!」とも、提言していますが。

「安楽死」の申請件数は、年間600件(2021年11月~2022年11月の実数で636件)。非常に厳しい審査を経て、最終的に「安楽死」が認められた件数が257件。
総死亡者数1000人に対し「安楽死」が認めらる件数は6~7人に留まるため、キリスト教右派からの強烈な批判は起きていない。

私はクライストチャーチのキリスト教学校に通ったわけですが、そこの正教員たちは、この「安楽死」の件数をどのように捉えるのか。"Silly" "Ridiculous" と、ヒステリックに叫ぶことは間違いない。数学の授業を、物理の授業をつぶし、ヒステリックに現行政治体制を、そして、ニュージーランドという「大きな村の小さな島国」を批判することでしょう。それが、キリスト教学校の日常だからね。その、ヒステリックな感情を持つ人たちのことを「キリスト教右派」と呼び、その人たちが、ニュージーランドという島国を動かしている。
「キリスト教右派」は、カネも情報も人脈も持っている。これらを総動員し、ニュージーランドという小さな島国を動かす。
学閥の王者「慶應三田会」が、政界・財界・官界を動かし、日本社会を動かす構図と、まったく同じである。

ニュージーランドで生きるには、ニュージーランド人が決して表に出さないココロの内面を理解しておかないと、ニュージーランドでは生きていけないのである。